plum滞土録

毎日のこと

menew

在宅勤務が続く昨今。

朝も昼も夜も家族全員の食事を作る毎日。

 

朝ごはん食べながら昼ごはんの献立を考え、昼ごはんを食べながら夜ごはんの献立を考え、夜ご飯を食べながら翌日の朝ごはんの献立を考え…。

 

終わりのないループ!!

 

作る作業よりこの「献立を考える」作業が異様に面倒くさい。

 

ということで、その負荷を少しでも減らすべく、アプリに頼ることにしました。

 

これ↓

最長1週間の献立が簡単に作れる me:new[ミーニュー]

 

無料アプリです。

一日1食だけだけど、1週間分の献立を考えてくれて、買い物リストまで作成してくれます。

親切!!!!!!

 

料理上手な人はこれを見つつ自分流にアレンジとかするんだと思いますが、私はもう盲目的にレシピに忠実に作り上げています。

 

え、サバをバターで焼くの…? え、タケノコとツナあえちゃうの?? え??ごま油とオイスターソースの出番多すぎじゃない???!!!

みたいなことにはなりますが、まぁ今のところ不味い料理には出会ってないので、いい感じ。

 

夕飯の献立を考えなくても済むだけで気持ちが大分楽になったので、ご興味があれば皆さんも是非お試しください。

 

 

 

松谷みよ子「ちいさいモモちゃん」

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最近、6歳の息子に読み聞かせています。

私自身は子供の頃にハードカバーで読んでいたのですが、挿絵がほとんどないこの文庫版でも、息子は興味津々で聞いているので、改めて素晴らしい物語なんだなぁと感じています。

 

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↑子どもの頃愛読していたハードカバー版。表紙の人形も中の挿絵も最強に可愛い。

夢中になって読んでいたのは10歳くらいまでだと思うのだけれど、未だに、20円のガムを買ってくれない理不尽さ対するモモちゃんの怒りとか、おいしいくまさんの作るおかゆのとろりとした感じとか、そういうものを肌感覚として思い出せるかんじがあります。

 

また、大人になってから改めて読むと身につまされることもたくさんあります。ママがパパと離婚に至るまでの苦悩や、死別の悲しみなどが、何も説明されてないのにちゃんと語られているんですよね。

パパの靴だけが帰ってくるというエピソードとか、今読むと本当に苦しい。

 

闇を避けるのでなく、光も闇も区別されることなく一緒くたになっていたのが子ども時代だったのかもしれないと、今振り返ると思います。

 

自粛期間だからこそ

「今しかできないことを!」

「自己成長のチャンスに!」

「この期間を上手に楽しんでいる人がたくさんいます!皆さんも是非!!!」

 

みたいなやつ、ちょっとしんどいと思うのは私だけですか?

 

「コロナに負けるな!」

って、コロナに勝てないからこうして家にステイしているわけで

 

何かというと「これを好機に!」ってみんな言うんですよね。

「このピンチをチャンスに!」って今企業の社長さん7800人くらい言っていると思います。

もちろん、企業は存在し続けることが必要なのだからそうせざるを得ないわけですが。

 

個人のレイヤーにおろしても、全てを好機にする必要あるのかしら。

何も出来ないなら、何もせず、頑張りもせず、ただゆるりゆるりとしていたらダメなのかしら。

 

「そうしたいならそうしてればいいけれど、そんなこと言っていると、コロナ後の世界から取り残れる。世界はものすごいスピードで進んでいるんだ!後で大変な目にあっても知らない!自己責任だ!」という話になるんですかね。

アリとキリギリスのお話みたいに。

 

それは分かりやすくて、確かにその通りなのだけれど。

でも何か、常に追い立てられているような。

もちろんこの状況で経済的に追い詰められている人たちは話が別ですが。

 

「充実したステイホームを✨」

みたいのは、何か違和感が。頑張ることを強要するみたいに聞こえるというか。うまく言えないんですが。

 

楽しもうという前向きな気持ちはもちろん素晴らしいけれど、そう思うにもある程度エネルギーが必要で。そこまでエネルギーが出せないような人たちを不安にさせるような風潮では、あってはいけないなぁと思うのです。(私は単に怠惰なだけですが)

 

どんなふうに過ごしてもあなたは何も損なわれない、今はただこの期間を生きてくれればいい。

そういうメッセージがあっても、いいのかなと思ったのでした。

 

 

エンタメ消費としての人間関係

数年前の自分の手帳をパラパラと見返していたら、

 

エンターテイナーとしての自分を意識する

 

と書いてありました。

 

なんじゃそりゃ。

 

この頃の私は、友達と会った時に楽しい話を提供できない、みたいなことに悩んでいて、人を楽しませることができないようじゃその内人が離れていって孤独になる!!と思っていたのでした。

 

それで、誰かと会う時は笑えるネタを最低3個は用意して臨もう、みたいな決め事を自分から課していました。

そうでもしないと大したことを何も話せない己のポンコツさよ。。。

 

まぁ今でも、人間関係において相手を楽しませたいと思うし、特に仕事関係においては積極的に楽しい話題を提供せねば、という義務感もあるので、「エンターテイナーの自分を意識する」というのも分かるのですが、でも最近は、プライベートにおいてそれは違うかなぁと。

 

「この人といても面白くないから、この人とはもう遊ばない」というのは、結局相手を自分のエンタメ消費のための存在としか捉えてないよなと思うのです。

 

私の場合、対家族だと、別に全然面白くなくても構わないし、思っていることを垂れ流してくれても黙ってても何でもいい。とにかく気を遣いたくないし遣われたくない。というのが本音なので、相手にエンタメ性を求めてないし、そんなの求められても困る。

 

そして最近はそれを、友達にもあてはめて考えています。

もちろん面白いこと言いたいなら言ってくれた方がいいのだけれど。無理しなくていい。自分も無理したくないし。

私はもう三十路を越えたし、何か笑えるネタがなければ関係が成り立たない、思春期のような友達関係みたいなものからは、もう卒業したいなと。

 

相手を笑わす、だけじゃなくて、会うたびに何か有益なことを相手に伝えたい、みたいなものも、何だかすごく疲れます。営業マンじゃあるまいし。いいよ、無益で。そのままでいてくれよ。そのままでいさせてくれよ。

 

でもそういうのは人間関係における「怠惰」になるんですかねぇ。

結局楽しませてなんぼ、みたい感じなのかしら。

楽しくないなら一緒にいる意味がないし時間の無駄、というのが主流なんだろうなぁとは思います。

 

でも相手の存在を近くに感じて、それをそのまま受け入れる、受け入れてくれる人がいる、という安心感は得られるし、もうこの年になるとそういう人間関係でいいんじゃない?っと思ってしまうのです。

テレビのバラエティ番組を見続けるのがしんどいくらいの歳を重ねてしまったのでね。

 

「世界街歩き」とか観ながら、お互い好きなお菓子食べあうみたいな関係が、一番心地いいなぉと思うのです。

 

安部公房「砂の女」

初めて読んだ安部公房作品が何故か「カンガルーノート」で、脛からかいわれ大根生えてきちゃうし賽の河原をストレッチャーで彷徨うし最期が悲惨だしで、「安部公房恐い!!!」というイメージがついてしまい、その後ほとんど安部公房に触れてきませんでした。「壁」を読んだくらい。

怖いもの見たさ?て「カンガルーノート」は何度も読み返しているのですが。

 

しかし、コロナ自粛のおかげなのか?、ついに読みましたよ!

二十数カ国語に翻訳され世界的に有名な「砂の女」を!!

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ほほう!こんな話でしたか!!(何だその感想)

 

毛嫌いせずにもっと早く読めば良かったという気持ちがありつつも、いや今読んだからこそ響いた、という部分も多かったです。

比喩が本当に巧みですよね。安部公房自信は純文学は一切読んだことがないと河合隼雄さんとの対談で言っていましたが、こういう文章表現力ってどこから生まれるんですかね。生まれもった感性もあるのかなぁ。羨ましい。。

 

以下、胸についた台詞を抜粋。

 

いざ仕事にかかってみると、なぜか思ったほどの抵抗は感じられないのだ。(中略)確かに労働には、行き先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ。

 

労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」

 

「まぁいずれ、人生なんて、納得ずくだ行くものじゃないだろうが……(中略)このまま暮らしていって、それでどうなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなとこと、分かりっこないに決まっているんだけどね……まぁ、すこしでも、気を紛らせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」

 

孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。

 

忍耐そのものは、べつに敗北ではないのだ……むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが、真の敗北の始まりなのだろう。